森永は、良心的で且つ、他社の追随を許さないものでなければならない、という信念のもと、『日本人のためのビスケット』を求め続けました。
最新鋭のビスケット製造設備を用い、英国のビスケット技師アッシェル父子とともに、試行錯誤を繰り返したのです。
そして、1923年(大正12年)、従来の国内製品とは別格の高品質を持ち、味覚も輸入品とは違った、日本人の嗜好にあったビスケットが完成したのです。
また、森永は新製品を発売する際の広告宣伝にもいち早く力を注いでいました。
当時主流だった、従来の商品名を告知するだけのお知らせ広告、という概念を脱し、『見て楽しい広告宣伝』として、品質を語りかけ、ライフスタイルを提唱し、“新しい風”を感じさせる表現を全面に取り入れていったのです。
そんな宣伝も手伝い、同年6月、塚口工場から大衆のもとへと送り出された、“16種の高級ビスケット”は、瞬く間に、『さすが森永』との評価を得ていったのです。
(今でも多くの人に愛されている、マリーが生まれたのもこの時でした)