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森永のビスケットヒストリー

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ビスケット物語 製造秘話

vol.4 森永ビスケット、製造力が飛躍的にアップ!

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国内発売を始めてからというもの、森永ビスケットの人気は広がり続けました。そして、最新鋭の設備を備えた塚口工場、また、芝田町と大崎の工場をフル稼働しても、供給が追い付かない状態が見え始めたころ、1925年(大正14年)、森永は新しい工場の建設に踏み出したのです。
それが、横浜鶴見に建てられた鶴見工場です。
採光や通風、機械配置や作業環境を十分に考慮した、このヨーロッパスタイルの新鋭工場の登場で、森永は、関西に塚口工場、関東に鶴見工場と、東西それぞれに近代的な総合生産拠点を構えることとなり、製造力が飛躍的にアップし、大量生産が可能となりました。

塚口、鶴見工場ともに、当初は美しい印刷化粧缶入りの進物用ビスケットの製造を主としていました。そのおかげで、中元、歳暮用の美麗包装進物としてビスケットは確実に定着していきました。しかし、一般に普及するには、まだまだ高価なものだったのです。
そこで森永は、より多くの人々にビスケットを楽しんでもらうために、ボール紙にワックスを塗ったパッケージを考案し、50銭で販売、新しい販売方法として業界センセーションを巻き起こしました。
そして、1936年(昭和11年)、4月には、パッケージビスケットの実用新案登録を行ったのです。

しかし、やがて1941年(昭和16年)、太平洋戦争が始まると、原料どころか食糧も不足し、軍用品を除いて、ほとんどの菓子の製造ができなくなっていきました。


ビスケット物語 目次

vol.1 当社ビスケット製造は、輸出用がはじまり

vol.2 東洋一を誇るビスケット工場「塚口工場」の完成

vol.3 国内向け「森永ビスケット」の誕生

vol.4 森永ビスケット、製造力が飛躍的にアップ!

vol.5 進駐軍の特需品性産で得た米国式ノウハウ

vol.6 ビスケット製造能力が5倍に!

vol.7 お客様のための新パッケージ登場!